威海について
会社概要
資格証書
社長挨拶
会社組織図
訓練基地
受入流れ
技能実習生派遣
出国留学
国際貿易
連絡方法
問い合わせ
 
 
 

威 海 市 概 要

    威海市は山東半島の一番東に位置しており、中国の有名な港湾、観光都市である。古来から朝鮮半島との交通の要衝であった。近代にはイギリスの租借地となり、現在は地理的環境から大韓民国との経済関係が強化されている。
    威海市の総面積は5436平方キロメートル、総人口は247万で、うち市内面積は731平方キロメートル、市内人口は56.94万である。現在の威海市は管轄する三つの市、即ち栄成市、文登市、乳山市三つの県クラスの市がそれぞれの人口数は67.03万人、64.98万人、58.67万人である。
    威海市の海岸線は1000キロメートルにも及んで、山東省の3分の1を占めている。沿海には、三つの大きな漁場があり、中国最大漁業産地の一つである。ここには、車えび、海鼠、あわび、貝類、藻類、また色々な経済漁類など300種類あまりの海産物が盛んに産出している。地下資源も種類が多く、採掘できると断定できた鉱物は、金、鉄、銅、亜鉛など30種類以上もある。威海の花崗岩は埋蔵量が豊かで、質もよく、特に「石島紅」、「文登白」、「乳山黒」等は国内外にも有名である。
    唐代以来、登州東部の文登県、栄成県の領域であった。明代の1398年倭寇防衛のため、山東半島に成山衛、靖海衛とともに威海衛が設置されたのが始まりである。清末には李鴻章率いる北洋海軍基地となり、1890年劉公島に北洋水師学堂が設置された。清日戦争末期、丁汝昌率いる清国北洋艦隊は威海衛湾内に閉じこもったが、海陸から日本軍の攻撃を受けて壊減した。下関条約締結後、日本が一時保障占領した。
    1898年にイギリスが清国から租借し、イギリス海軍の管轄下に置かれ「ポート・エドワード」と呼ばれた。1900年には行政長官署が設置されてイギリス植民地省の管轄下に入った。清朝最後の皇帝となった愛新覚羅溥儀の家庭教師をつとめたイギリスの中国学者であるレジナルド・ジョンストンが1926年から行政長官をつとめた。
    1929年蒋介石の南京国民政府が成立すると、中国返還が決まり、1930年10月1日返還式が行われた。中日戦争では再び日本軍が占領している。
    1945年に中華民国政府の下で威海衛市が成立し、中華人民共和国成立後の1950年、威海市(県級市)と改名、1987年現在の地級市に昇格した。中韓国交樹立(1992年)以前の1990年には大韓民国仁川広域市との直通フェリー「金橋」号が就航し、韓国との関係を深めた。仁川港まで14時間の航海である。
    改革開放以来、外国投資を集め、中韓国交樹立後は韓国からの直接投資が集中した。このため2003年の輸出額は25.3億ドルに達し、外国からの投資額の50%以上を韓国資本が占める。在住韓国人1万人を超え。
    威海港は青島に司令部を置く中国人民解放軍海軍・北海艦隊の重要な基地でもある。渤海湾南部で開発が進む海底油田地帯にも近い。東部の栄成市は中国最大の漁獲量を誇る。

威海地級市は1市区と3県級市から成る。  人口合計約:261万人                   
環翠区   (人口約57万人)         栄成市    (人口約67万人)     文登市 (人口約65万人)
乳山市   (人口約59万人)         石島管理区 (人口約13万人)

       
版権所有:威海市信拓国際経済技術合作有限公司